志村貴子『青い花』評論集への寄稿のお知らせ

話の飛躍についていけません ――志村貴子青い花』評論集―― | アニメ・マンガ評論刊行会
http://www.hyoron.org/aoihana2


アニメ・マンガ評論刊行会様の発行する、『青い花』評論集に寄稿させていただきました。
リンク先の引用ですが、以下のイベントで頒布されるそうです。

イベント頒布


リンク先にある通り、書店委託も打診中のようです。
こちらの評論集は原作である漫画と、TVアニメ版のふたつをそれぞれ取り上げた、二本柱の構成になっています。
私はTVアニメシリーズ『青い花』について、「TVアニメ『青い花』考 ――「光」が「色」を描きだす時間」という、本作特有の色彩設計や美術を切り口に、本作のもつ印象や、描き出そうとしているものを考える原稿を書かせていただきました。
個人的なことですが、この原稿は下記の『ラブライブ!』第8話の記事と同時期に書いていたもので、姉妹作のように思っています。
別にどちらかだけでは理解できないとか、両方読むと何かがわかるとかっていうことは何もないですが、『ラブライブ!』の方は「音」、『青い花』の方は「光」と「色」と、映像作品を観ることについてそれぞれの切り口で書いたものになっていると思うので、参考までに。


評論集に話を戻しますと、他の寄稿者の方々も漫画・アニメ語りで名前を見る方が多く、濃い内容になっているのではないかと。
何気にびっくりするような名前も見えたりしますが……そして個人的に並び順もちょっとびくっとする感じですが……w


そして、「誰が何を書いてもいいんだよ ――TVアニメ『たまこまーけっと』評論集――」という、TVアニメ『たまこまーけっと』を扱った評論集も同時発行されるそうです。
こちらはちょうど最終回直後なので、いち早く『たまこまーけっと』全体を評したものが読めたりするかも知れません。


何卒よろしくお願いします。

TVアニメ『ラブライブ!』第12話までからみる視点の置き方と、その劇的さ

せっかくコメントのほうでご要望をいただいたのに、時間のやりくりが下手なため記事が遅れてしまいました。申し訳ありません……。
さて、TVアニメ『ラブライブ!』第12話、もう一波乱あるとは思っていましたが、恐るべき出来でした。
圧縮された展開で穂乃果のアイデンティティを揺るがす流れは、クライマックスでの谷に相応しい構成ですね。
構成という点でみると、映像と絡めてみても見逃せないものがあります。それは本作に一貫してある、視点の置き方に大きく関わってくる部分です。


まず見てもらいたいのがこの画像群です。

左が第8話Bパートで、穂乃果が絵里に手を差し伸べるカット。右が第12話Aパートでの、絵里が穂乃果にCDを手渡すカットですね。
画面外から腕の伸びてくる位置、方向が同じになるよう、意識されているようなカットです。
それぞれの場面を見ると、前者が絵里を迎え入れる場面で、後者が穂乃果に目標であったラブライブ出場を断念したと告げる場面になっています。
働きかける人物とその対象が逆転しており、そこで起こっている事態も、歓迎する前者に対して後者は厳しい決定を告げるというものへと変化しています。

次に見てもらいたいのが、同じく左は第8話Bパートの屋上の場面と、右は第12話Bパートの屋上の場面のカット。ちょうど穂乃果の立ち位置が逆になっています。
前者は絵里が穂乃果の言葉にとまどい、屋上から出て行ってしまう場面で、後者は穂乃果が絵里らの提案する9人最後のライブを拒否し、出て行こうとする場面ですね。
以前の記事でも穂乃果と絵里の対称性や、それが穂乃果から絵里へ視点がスイッチしているという流れについて書きましたが、今回のこうした映像の流れは、第8話の出来事が反転したようでもあります。
第11話冒頭からして穂乃果視点に移ったことを強調していましたが、第12話でもそれを継続して、第2話に対する真姫からのCD、μ'sの上に貼られたA-RISEのポスター、第1話に対するA-RISEのライブを観る穂乃果と、過去の場面の反転が随所に散りばめられています。


そして、それらの描写が映像というひとつの流れのなかでどう機能しているかというのが最も重要な点です。
序盤で書いた記事に「近視眼的」と書いたことがありますが、それはこの単語のもつ悪い意味を差し引いても、作中で描かれる穂乃果達の視点のおよぶ範囲が広くないということをしっかりと捉え、カメラもその視点と同期して彼女達の感情に踏み込んでいく、そうした視点の置き方がとても良いと思って書いたものでした。
こうした視点の置き方によって、第7,8話で違う価値観を持つ絵里の葛藤にフォーカスし、その外でμ'sの7人が動くというドラマが描き出せたのだと思います。
また、こうした視点の置き方はまさにこの第11,12話の、穂乃果に視点が帰ってくることにおいても重視されていると感じます。
穂乃果の精神と身体のずれが描かれ、そのずれが影で悩むことりと同時に決定的なものになってしまう第11話から、第12話では穂乃果がそれらを実感して「自分がいかにまわりを見ていなかったか」を自覚していきます。
メタ的にも、A冒頭で母親が「昔からずっとそう」と言うことからも、ここまで穂乃果には実は「変化」がなかった、という別な角度から穂乃果を見る視点が入ります。
先述したA-RISEのライブを観る場面は、今度はA-RISEよりも彼女達が大勢のファンを向いてライブをしているということに目線が移り、そこで第1話とは逆に「追いつかない」と穂乃果のモノローグが入ります。
ここで重要なのが、穂乃果はまわりが見えていなかったことを自覚するのですが、そのことでまた彼女は内省をする、という部分です。
面白いと思うのは、そうしたドラマが描かれるこの回のコンテマンが渡邉哲哉さんだということですね。渡邉哲哉さんの説明としては下記の記事があります。

ラブライブ12話〜渡邊哲哉の望む永遠part2 - まっつねのアニメとか作画とか
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20130325/1364207886


この記事でも触れられている、渡邉さんの監督作である『君が望む永遠』は、主人公の彼女が事故で意識不明になり、時の流れのなかで主人公が幼馴染と関係を持つようになってしまっていたある時、彼女が当時の記憶のまま目を覚ます、という筋書きです。
こうした時間の流れのずれは、『ラブライブ!』第12話を見てみると、風邪で数日学校を休んだ間にラブライブ出場辞退が決まり、気づかないうちにことりの留学までの期限が過ぎていた、という穂乃果とその周囲の時間のずれにも置きかえられるのではないかと思います。
こうしたディスコミュニケーションによる断絶を自覚することで、穂乃果は内的な葛藤に移っていきます。


葛藤というのは、やはりドラマとしては重要な部分で、これについても掘り下げてみようと思います。
ここまで見てきた流れと葛藤を読み解くために、ひとつ古典に当ってみます。それはアリストテレスの「詩学」です。
とはいえ、私も直接この書を理解したわけではなく、木下順二さんの著作「"劇的"とは」によってなので、今回もそれに準拠した理解なのですが、この本はアリストテレスの「詩学」が悲劇を論じたものでありつつ、ドラマ論だと考えていいというスタンスで書かれたものなので、その視点に寄り添わせていただく形をとります。
木下さんが本著で論じているのはタイトルの通り劇的と呼ばれるもので、そこでやはり葛藤というものを扱うのですが、作劇のなかでの根本的な機能としての葛藤について見ていくときに用いられるのが、アリストテレスの「詩学」のなかに書かれた"発見"と"逆転"というふたつの要素です。
このふたつの要素を、「オイディプス王」を例に抽出したのが以下の文です。

オイディプスは、直接的には疫病を克服しようという良き意図、つまりは自分が良き王として十分に生きようという願望を持って一所懸命努力する。そして努力の末に、自分が罰せられれば疫病はなくなるということを"発見"するわけです。罰といってもそれは単純な罰ではない。自分の父親を殺し、自分の母親と結婚している自分をどう罰するか。つまりオイディプスは、自分自身を否定しなければならないところに行きつくわけです。


そのような"発見"をしたら、発見者はひっくり返らざるを得ない。そこでアリストテレスは、ああいう"発見"をした結果、十数年間よき王として坐っていた地位から全く"逆転"せざるを得ない。それ以上に、彼の人間としての存在が全く"逆転"してしまう。つまりオイディプスは、自己否定を完遂しなければならなくなるのです。


木下順二著「"劇的"とは」より抜粋


途方もない筋書きですが、要素として挙げられた"発見"と"逆転"は、『ラブライブ!』でも適用できるものでしょう。
第8話はまさに、絵里の生徒会としてμ'sに対峙すればするほど浮かび上がる「やりたいこと」の"発見"と、立場を"逆転"するしかないという作劇とみることができます。
ひるがえって第12話は、穂乃果がスクールアイドルを始め、ラブライブを目指すまできたところで、ことりのことを気づけなかった自分の視野の狭さの"発見"があり、ラブライブ出場が立ち消えとなり、ことりと別れなければならないという"逆転"が起こる、といえます。
こうした"発見"とそれによる"逆転"によって生まれる効果を、木下さんはアリストテレスの"浄化"を言い換えて"価値の転換"と呼んでいます。
これは以前の自分の視点が否定されるほどの"逆転"によって、より高次な視点に立つことができ、新しい視野がひらけるというものです。
というとまた大仰に聞こえますが、視野がひらける、視野の外からあらわれるものにドラマを感じるというのは、個人的には『ラブライブ!』の大きな魅力であると思っています。
第3話のライブの客席にしろ、第5話の部室で待っていた6人にしろ、第8話の絵里のもとに集う8人にしろ、カメラの置いた視点の外のものが内にあらわれる見せ方の、観ているこちら側の視点もひらけるような飛躍の表現は、そう味わえません。
こうした"劇的"とさえいえる表現を生んでいるのが、『ラブライブ!』の視点の置き方なのではないかと思います。


話を第12話にもどすと、例えば第8話では絵里の"逆転"があったところに、8人が働きかけるということがあって、絵里は選択をする、というところまでがドラマでしたが、今回穂乃果はひとりの内省的な葛藤から、9人最後という"発見"した現実から降りようとします。
本作のキャラクターデザインである西田亜沙子さんも仰っていましたが、穂乃果はこの変化から逃げるという方に行ってしまったんですね。
そこに至って働きかけるのが、穂乃果とことりの間にいた海未です。
穂乃果とことりの葛藤にカメラのウェイトが置かれていたのが、ここで海未の行動にカメラが向く。この視点の動きがやはり本作らしい良さだと思います。
最初の方に挙げたふたつ目の画像群において、1枚目の絵里は屋上を出て行きますが、2枚目の穂乃果は、その前に海未が止めます。
海未は第7,8話で絵里に視点が移る前に、それまでの視点との中継点として置かれていた存在でもあります。
この海未の働きかけによってどうなるか、あるいは最終回で海未がどう立ち回るのかはひとつの見所ではないかと思います。
そして穂乃果のドラマの最終局、カメラの外に去っていったことり、これらをどういった"劇的"で見せてくれるか、非常に楽しみにしています。


ラブライブ!関連エントリ

TVアニメ『ラブライブ!』第11話の変化する人間関係、そのずれの描き方

TVアニメ『ラブライブ!』に相変わらず驚かされっぱなしで、とても楽しんで観ています。
第11話は、第3話の反復をみせつつ、さらに大きな期待からの反動を描く展開で、その大胆さがとてもよかったです。
しかし、大胆な構成ながら、実は今回の穂乃果たちのずれが決定的になるまでに至る道も結構見えていて、そこもまた面白かった。
なので、今回の記事ではそこを見ていこうと思います。


第11話で、ことりが何かを抱えている描写も気になりつつ、個人的に目にとまったのが、穂乃果と絵里の関係でした。
絵里は、穂乃果の提案を、彼女がリーダーとしてμ'sをひっぱってきた素質を感じとった上で、それをより具体化していきます。
前回の、穂乃果の突発的な合宿の提案をうけて、絵里が先輩禁止という計算をもってその穂乃果の真意である、チーム全体が打ち解けるという目的を明確化したことも、こうした部分の顕著な部分ですね。
そうした、穂乃果の第6話でかいま見せたようなリーダー性を伸ばして、よりグループ全体に還元する形で絵里が働きかけたからこそ、μ'sもどんどん順位を伸ばしていった、と想像させます。


しかしながら、同時にここに予想外の落とし穴が出てきます。
絵里は今まで生徒会長として、あるいは現実は甘くないと告げるものとして、穂乃果たちの前に立ちふさがっていました。
それは障害ではありましたが、絵里の言い分にも正しさはあり、彼女を必要とし、迎え入れたとき、穂乃果たちはより過酷さをともなう段階に入っていくことになります。
とはいえ絵里も無理ではないとわかったからこそ加入した身。前述のとおり、彼女の加入でμ'sはさらなる段階に上っていきます*1
それはいいことなのですが、問題になるのがここでの絵里との関係の変化です。

前回の記事に書いたように、穂乃果は第1話で(おそらく)生徒会長として講堂に立つ若い母の写真をみて口元に力をこめた描写を見せている、「生徒会長」に無意識的にしろコンプレックスを抱いていたようなキャラでした。
それが今では絵里は仲間になり、先輩を取り払って名前で呼び合い*2、提案を形に変えてくれる存在になった。
そのことは穂乃果の精神を鼓舞し、さらに彼女を燃え上がらせますが、同時にそれが肉体とのずれを引き起こしていきます。
気持ちでは万能感すら持って突き進むものの、今置かれているのは先述したとおりラブライブ出場を賭けた過酷な状況であり、肉体はその間にさらされているのです。
第1話で「小学校の遠足以来」と言われる早起きをして、第2話以降ずっと朝練で早起きを続けていた穂乃果が、学園祭当日に「起きられない」という、決定的な描写にあらわれたのが、その結果です。
また、万能感に加えて、μ'sをラブライブに押し上げる最中のためにその目標に視線が固定されて、穂乃果はことりのことにも気づけません。
上手いのは、ここで競っている相手というのは画面を介してでしか認識されない他校のスクールアイドルであり、相手の姿が見えないぶん視野が狭まってしまうんですね。
これまでの、ネットを通した得票に対する喜びや、スマートフォンアプリによる複数人での通話のように、新しいコミュニケーションツールに取り囲まれた彼女たちの状況が、作劇とうまく合致していると感じる場面です。


話がそれましたが、一方で、絵里は穂乃果の能力を伸ばすことは成功しても、細かいフォローまで完璧にこなすことはできません。
それは第10話で、先輩禁止によって花陽らとは距離を縮めつつも、真姫とは希を介さなければ打ち解けることができなかった、彼女の距離感の取り方からも見て取れます。
絵里は、頭脳としてチーム全体を見て、第9話ではことりを抜擢したりと個性を伸ばすことはできますが、個人の問題には踏み込みきれません。
それだけに穂乃果の、にこや絵里へ働きかけたり、第9話でのことりの悩みに付き合ったりといった行動が彼女の強みと再認識できるのですが、今回はまさにその穂乃果にずれが生まれてしまう。
今回の場合は、そもそも関係性の変化による影響もあるので、当事者である彼女たちが認識することも難しい、というのもあります。
やはりそこで重要になってくるのが、変化とは無縁の、子供の頃からの仲である海未とことりですが、ことりも(どうやら)今の関係性に変化をともないかねないような個人の問題があり、海未はそんな二人の別個の問題を同時に対処はしきれません。
穂乃果は焦りという内的な問題、ことりは手紙の内容による外的な問題で、より表に悩みが出てくることりの方にどうしてもひっぱられてしまうんですね。
最終的にライブでは海未とことりが両端に配され、三人は分断されてしまいます。
*3
ふたたび話はそれますが、内部と外部に一度に問題が起こる流れは、第9話最後のことりの眠っている場面から、第11話の穂乃果が目を覚ます場面へとつなぐ映像の流れで、前者で仕掛けておいて、後者で表に出てくる、とも見ることができるのも面白いところだと思います。
間にある第10話では寝起きの悪すぎる海未というコミカルな場面をはさんでいるのも、むしろ落差が効果的です。


視野の狭まり、それによることりや絵里らとのずれ、精神と肉体のずれ、夜の特訓によるバイオリズムのずれが、穂乃果の主観に視点を置いた構成と演出で最大限に効いてくるのが、恐ろしくもとても面白い回でした。
9人揃って、第10話でキャラとその関係性を掘り下げた上でこうした決定的な事件を持ってくる、という構成の妙も感じましたね。
中二病でも恋がしたい!』後半で立花や凸守らが見せた外見と関係性の変化のように、変化していく関係性を描くことが花田十輝さんのひとつの特色なのかもしれないとも思わされます。
さて、そこで次回のサブタイトルは「ともだち」。あと2回で何を見せてくれるのか、まだまだ楽しみで仕方ありません。


ラブライブ!関連エントリ

*1:第8話で、「僕らのLIVE 君とのLIFE」を踊ったあと穂乃果が「できた」と言うのが印象的です。

*2:第11話冒頭でも、絵里と名前を呼び合う場面を組み込んでいる。

*3:No brand girls」曲中のキメの部分のひとつながら、ことりと海未だけが画面に入っていないカット。

TVアニメ『ラブライブ!』第8話の演出考〜「僕らのLIVE 君とのLIFE」に至る、彼女たちのステップ

ラブライブ!』第8話が素晴らしい出来だったので、このエピソードの演出の良さと、この作品の良さについて考えていきたいと思います。


まずやっぱり、このエピソードの肝として一番語られているのは「僕らのLIVE 君とのLIFE」のライブシーンですが、しかしながらそれだけのエピソードではないと思います。
当然、彼女たちのひとつの達成として、そのピークに置かれているのがあのライブですが、ゴージャスなライブさえ配置してくれれば感動するといったことはありません。
では、『ラブライブ!』第8話にこうも揺さぶられるのは何故なのか。



まず、見てもらいたいのが上に貼った3枚の画像です。1枚目が「僕らのLIVE〜」PVの中のカット。2枚目がOP「僕らは今の中で」の中のカット。3枚目が第8話の中のカットです。
多少レイアウトに変化はありますが、どれもカメラとの距離(机の数から)や背景の構成要素を同じくしています。
3枚目なんかはまさに、1枚目と同じ構図を繰り返し、「僕らのLIVE〜」の再演の導入となっています。
目を引くのは2枚目で、演出家が同じだから構図の引き出しがたまたま同じ、で流してしまいそうにもなりますが、よく見るとあることに気づきます。
カメラの手前からことりが顔を出すのは「僕らのLIVE〜」のPVの中でも出てきますし、海未がこの位置から背中を押すというのも、「僕らのLIVE〜」及び、第8話で彼女が絵里にする行動と同じです。
つまり、OPのこの1カットには「僕らのLIVE〜」の要素が詰め込まれていて、先々の展開の種がまかれていたのではないでしょうか。
では、何故2年生トリオのカットで「僕らのLIVE〜」の絵里のカットが描かれたのか。先述した要素には穂乃果は含まれないし、このカットで穂乃果が座っているのは絵里のいた場所であったりもします。何故なのか。



そこで次に見てほしいのがOPのこちらのカットです。穂乃果と絵里が向かい合って……という、劇中の二人の立ち位置がはっきりと分かるカットですが、先の絵里の位置にいた穂乃果のカットと、劇中での様子を見ているともっと色々と考えることができます。
第1話、穂乃果がスクールアイドルを知るきっかけになったUTXに向かう前日の夜、彼女は母の卒業アルバムの中で、恐らく生徒会長として講堂に立つかつての母の姿を見て、口元になにか力がこもります。
言葉として明確に情報化されていないので、意外とここについて言及されているものを見ないのですが、穂乃果が行動を起こすきっかけになった一因として「母が生徒会長」というコンプレックスがある、と取れるカットの積み方になっています。
一方「生徒会長」である絵里はというと、穂乃果がまさに目をつけた「踊り」にコンプレックスを持っていた、というのが第8話で分かります。
実はこの二人は、抱えているコンプレックスと立ち位置が鏡写しのようになっている。だからこそ穂乃果はOPで絵里の座っていた場所にいるし、二人は正面から向かい合う。
劇中で描かれる二人の関係性とこのOPのカット群がイメージとしてつなぎ合わさって、そういったことが見えてきます。
そこから第8話を見ると、なるほど第1話Bパートでの穂乃果と絵里の場面が交互に切り替わるシーンの再演のようなアバンやA冒頭での二人の台詞のつなぎによって、これまで穂乃果を中心にしていた作中の視点が絵里に切り替わる。
そして、この回ではアバンで絵里が穂乃果を遮るように立ってから、穂乃果の顔が隠れることが多く、なかなか穂乃果と絵里の顔が一緒の画面に映ることがありません。
これは絵里視点を強める意図もありますが、映像作品は、その場面その場面の意図だけでなく、いくつもの場面の連続によって効果や意味が生まれてくるものです。
これについては、アニメーター・アニメ演出家である平川哲生さんの記事に印象的な記述があります。

さて、『人狼マニアックス』という本で、画面の奥に向かって道路が「坂」になっているレイアウトに「これは伏と圭のゆくすえが困難であることを意味している」とコメントしてありました。本が手元にないのでおぼろげな引用ですが、これはどうなんでしょう。


たんなる「坂」というイメージは、山が好きな人にとっては「困難を乗り越えて得られる幸福」も意味するでしょう。思春期の人にとっては「人間的に成長するための道」かもしれませんし、老人は「加齢していく運命にある人間」と思うかもしれません。あるいは「結果より過程がたいせつ」という意味を読みとる人だっているでしょう。
(中略)
たしかに、そのレイアウトに描かれた「坂」は「ゆくすえの困難」も意味します。しかし、しかるべきイメージの連鎖があって、結果的にそうなることを忘れてはいけません。


ぼくえん: 『人狼』のイメージの連鎖とレイアウト技術
http://bokuen.blogspot.jp/2006/08/blog-post_17.html


ここで見ていくのもそういったイメージの連鎖に他なりません。
連鎖を感じる場面といえば、絵里が窓越しに穂乃果たちを見る場面*1が何度も出てくるところなどもそうですね。
単体として見れば、この窓越しという状況は絵里が穂乃果たちに感じている距離を視覚情報として表現している、がわかりやすい解釈でしょう。
しかし一方で、これまで見てきた場面の連鎖からみると、絵里が見つめる先というのは、鏡写しの穂乃果であり、鏡の向こう、つまり彼女自身の葛藤でもあると取れます。
言ってしまえば、屋上での穂乃果との会話では、絵里は鏡に映った顔に「やりたいからです」と言われているのです。
それに動揺し、希に本音を爆発させたあと、教室でひとり窓に映った自分を見ている絵里に、窓とは反対の方向から手が差し伸べられる。
そこはもう鏡に隔てられた世界ではなく、穂乃果と絵里はようやく触れ合うことができます。
そうして二人がついに同じ場所から同じもの――もはや窓越しではない青空を見る時に達成されるものが、あのライブでした。

先述したOPでの向かい合うカットや、あるいは第3話の終盤の対峙などから、このカットに至るという映像の軌跡が、このライブをかけがえのないものにしているのだと思います。
見せ場を点として配置するのではなく、まさにライブに入る手前のグラウンドの白線のような、ひとつの道筋を描いている、映像作品が持ちうる連続性という快感を存分に味わえるエピソードでした。


と、いったんまとまっちゃいましたが、もうちょっと続きます。

*1:パソコンやiPodのようなものによる画面越しもそこに含んでいいでしょう。

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『スタードライバー THE MOVIE』感想〜繰り返す僕たちのアプリボワゼ

というわけで『スタードライバー THE MOVIE』を観ました。
再構成なので大きくこちらの予想を外すということはなかったですが、TV版が好きなら描写の差異だとか楽しめる部分が多いと思います。
パンフレットでの榎戸洋司さんのテキスト及び五十嵐卓哉監督との対談インタビューも、補完の助けになるのではないかと。
で、以下は突っ込んだネタバレ感想となります。TVシリーズのファンの感想なので、TVシリーズの方のネタバレも当然入ります。ご注意を。


・「今年も来た」季節の風が示す『STAR DRIVER』の反復性
再構成にあって、まず四方の巫女が各々季節の風を感じる場面を各章の冒頭に見せるという構成が目に留まる。
「今年も来た」というように、季節は移り変わるが、毎年必ず繰り返し訪れるものである。
さて、TVシリーズの『STAR DRIVER 輝きのタクト』においては、繰り返し――反復が数々の場面で用いられている。
反復し、対比されるモチーフとして最も顕著なのが、三人組の関係だろう。
タクトとスガタとワコ、フィラメントの三人、おとな銀行の三人、ミズノとマリノとタクト、タクトとナツオとハナ、トキオとリョウスケとソラ、スガタとワコとケイト、マルクとコルムナとクレイス……。
繰り返し現れる過去にあった関係、隣り合って存在する関係と対比され、タクト・スガタ・ワコの三人の関係性が浮き彫りになってくるのがTVシリーズの構成だった。
ヒョウ・マツリの語るサカナの惑星の物語も、サイバディの物語であり、それを取り巻く少年少女によって反復される物語だ。
こうした関係性は押しなべて男女関係であり、これは遠い過去であっても現在であっても必ず存在する関係性だ。
必ず存在し、その中で生きていくというもの。季節と同様、摂理に近い。問題は、その中でどう生きていくか/いたかだ。
季節や、他者との特定の関係は人生において繰り返し何度も訪れるだろう。しかし、そのひとつひとつは一回性のものだ。
何度も反復がなされる本作のドラマとはそういうものだったのではないかと思う。そうしたものに葛藤する場が「ゼロ時間」というのも面白い。
そして今回の『スタードライバー THE MOVIE』も、TVシリーズを再構成することで反復する物語だ。
作中でどれだけ時間が経ったのか分からないが、南十字島にはなかった冬の風が吹いた。しかしそれは春から始まる回想と地続きの冬だ。
繰り返し見せられる再構成された物語には、今回新たな前提が加えられている。スガタとワコがその後銀河美少年となることだ。



とまあ、この辺りはまだこう思って鑑賞に臨んだ部分でもあるのですが。
では、劇場版におけるイレギュラーな部分から、劇場版自体に迫って行きましょう。

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『ラブライブ!』1〜3話の京極尚彦監督のカメラを動かす演出に注目してみる

ラブライブ!』、とても面白く観ています。
前回の記事でそのスピーディな展開の圧縮ぶりに注目していたら、あの3話でのライヴの客席。
クラスの数人の団結でしかなかったことを、がらんとした客席で見せる、その視点の置き方自体がとてもツボでした*1


今回の記事は、その場面のことも見ていくんですが、少々迂回して京極尚彦監督の演出として特徴的だと感じる部分から見ていこうと思います。

まずはTVアニメ以前のPVから。注目したいのは、ズームやPANを多用しているところです。
歌い出しのことりをPANで見せたら、カメラがそこでズームアウトし、全員のダンスを見せる。
そこでドラマパートのことりにカットが切り替わったと思ったら、今度はPANでダンスに戻ってきて、更にカットはそのままでズームアウト。
その後も場面転換にPANが使われ、キャラに寄ったカットでもじわじわとしたズームやPANを使ったり、背景を引いたりとカメラが動くカットがとても多い。
これで思い出すのが、次の動画です。

これの8分過ぎ辺りからの、アイドルのライブにおけるカメラマンチームのズームやフォローの技。
歌割りやダンス中の位置取り、振り付け等を把握した上で、曲に相応しい動きをこれらの技で作る、という技術が紹介されています。
ラブライブ!』PVにおける技は、これらと全く同じということではないにしろ、曲や振り付けに合わせて行なわれるという意味で似た性質を持っているように思います。
最初の動画における「もっと近くで」のにこのカットや「僕は」の真姫のカットでの、腕の振りを追ったカメラ動や、「輝きを」のカットでの手アップの次に腕を振り下ろす振り付けに合わせたカメラ動等。
ちなみにフルバージョンだと、2番で掛け合いの振り付けが出てきて、その際後からフレームインするキャラのためにズームアウトが用いられる場面も見られます。
京極監督がどこまでこうしたカメラマンの技術を知っていたかは分かりませんが、カメラワークによって曲や振り付けを更に演出しようという意図は、先の動画と近いと感じます。
加えて言うと、アニメは物理的制約がない(技術的な制約はあれど)ので、アップから実写ではありえないような遠景までズームアウトする、といったケレン味のあるカットも『ラブライブ!』のPVでは使われたりしていますね*2


といったように、京極監督はPV時代を見るに、カメラを動かす演出が得意なようです。
では、PVとは違う場であるドラマでの京極監督のカメラワーク演出はどのようなものなのか。
各話での、ある一つのカメラワークをピックアップして見てみましょう。それは→方向へのPANです。


・第1話

上三枚はAパート半ばで穂乃果達が学校を見て回る場面でのカット群で、下三枚はAパート後半で穂乃果が母親のアルバムにあるかつての学校の写真を見るカット群です。
上三枚のカット群は、廃校になったいきさつから、それを何とか出来ないか考える穂乃果達の会話をボイスオーバーにして、学校内各所を見て回るシチュエーションを短縮して見せていく、時間を圧縮して説明を行う場面ですね。
それぞれの場所から別な場所に一気に飛ぶのを、→方向のPANで映像に流れを作って違和感なく見せるという演出がされています。
下三枚はアルバムの写真を見せるカットで、こちらはややゆったりと時間を取っているカット群ですね。
穂乃果が学校をどうにかしたいと強く思う、妹が別な学校を受けると知って、祖母も母もずっと通っていた学校だということを再認識するシーンです*3
この→PAN三回の後、穂乃果の母親が生徒会長をしている写真が↑のPANで現れ、決心するような穂乃果の口元のカットに続きます。
状況説明を圧縮して行った上三枚の場面から、同じPANでかつての学校を見せ(下三枚)、母親が学校で頑張っていたということに一気に繋げる形で、→PANが使われているんですね。
ここまでAパート半ばで、この後スクールアイドルを知るまでをAパートでやってしまうので、非常に手際の良さを感じさせます。
ちなみにBパートでも→PANの出るカットはあって、それは真姫の歌を聞く穂乃果のカットと、生徒会に部の申請書を出すカットです。
前者は次回への布石的ですが、後者はその後突き返されるカットが←PANで、カメラの動かし方に自覚的なところを感じます。
そして最後、穂乃果に背後から→の方向に寄っていって、彼女が歌い出し、→方向に向かっていく、という流れも自覚的に作られた動きなんじゃないかな、と思わせます。


・第2話

左から二枚はクラスメイトの言葉を聞く穂乃果のカット、三枚目はμ'sの名前の書かれた紙を見る穂乃果のカットです。どちらもBパート。
この回は、場面転換に使うPANを除けば縦のPANの方が多いです。腕立て伏せや、階段を走る特訓という話のメインが縦の動きのため、その印象を強化するテーマでそうした演出になっているのかな、と思います。
ではその縦のPANが多い中で使われる第2話での→のPANはどう使われているのかというと、画像のように主に穂乃果を捉えています。
クラスメイトが手伝いを買ってくれる場面や、誰かがつけてくれたグループ名を見る場面での穂乃果のリアクション、先に挙げた以外はスクールアイドルのランキングに票が入った時の穂乃果のリアクションのカットも→PANが使われていますね。
前回は学校自体を見せる→PANでしたが、この回では「学校の中の穂乃果」を捉えているように思えました。
クラスメイトや、名前を考えてくれた誰か、票を入れてくれた誰かによって、自らも学校の一員であることを自覚する彼女を見せるようでした。
ちなみに穂乃果以外ではAでポスターを見る花陽の背後ににこがくるカットと、歌詞を渡されて悩む真姫にも使われています*4
前者は切り返した次のカットで←にPANして阻まれますが、後者は穂乃果から受け取ったものをその後手紙にして送り、→PANをその先へ繋げていきます。


・第3話

第3話はAパートでは主に←方向のPANを使って海未の葛藤を見せていて、Bパートで→PANが多く出てきます。
上段左は幕が開いて誰もいない客席を映すカットの一つ、それ以外はライブ2番サビでの連続して観客*5を見せるカット群です。
上段左は、ここに挙げた以外での、Bパート冒頭の満員の講堂を見せる→PANとの対比的な効果を持つカットでもありますね。
そしてそれらのカットは前回までの→PANにあった、学校の中にいる穂乃果達の視点が学校全体ではないということも対比的に見せてきます。
ここの一連で他に目に留まるのは、第1話の歌い出しの穂乃果の顔に寄っていく→方向のカメラの動きと、客席が見えるカットのそれを同じ動きにしているところですね。
この落とし方は凄いですが、そこへ→の方向から講堂に花陽が現れます。この観客の登場で、穂乃果も→方向に一歩を踏み出す。
そして行なわれるライブで挟まれるのが、ここに挙げた観客のカット群、そこに居合わせたメインキャラ達の姿です。
そこに映された思い思いにライブを観るメインキャラ達も(きっと後々のことも含めて)大事ですが、ここでは彼女達が見ている先の、穂乃果達の歌がまさに観客の彼女達に届いているというのを描写しているのが重要なポイントかな、と思います。
これまでの回からの流れを見ていくと、第1話で学校を見て、第2話で学校での居場所を確認して、そして第3話で歌を届ける……といったようなことを→PANによる接続から見ることが出来るのではないかと思いました。
ライブの後、絵里が現れて斜め上からの←のPANで失敗をどうするつもりかと聞きます。続けることを伝える穂乃果の言葉はボイスオーバーになって、再び観客それぞれに届くように各々を→PANで見せていきます。本編最後のカットは→の方を向く穂乃果達を映し、その視線にはまだまだ先があると伝えてくれるようです。


細かい意図に関しては個人的な見方と感想も込みになっていますが、各話での→方向のPANはこのように、穂乃果達の視点を感じさせる使い方をされているようで、彼女たちの感情が乗っているように感じました。
PVで培った大胆な動きを作るカメラワークや、スピーディな場面転換だけでなく、こうしたキャラの感情を乗せたカメラワークも出来るのが京極尚彦監督の良さではないかな、と思います。
また、そうしたここという場面で穂乃果達の感情をしっかりと捉えることが、"スクール"アイドルというあくまで普通の学生としての彼女たちの魅力につながっているのではないかと。


ラブライブ!関連エントリ

*1:主人公達の考えが近視眼的で、かつそれとは別な視点があることも描く自覚的なところに初期プリキュアウテナ的な良さを感じたりしました。

*2:3DCGでは更にカメラワークの自由度が上がりますし。

*3:この、発端が近視眼的なところが個人的にツボです。

*4:前回の記事の下段真ん中の画像ですね。

*5:希は会場内に入ってませんが、聞いていたことには変わりないかなと。

『ラブライブ!』第2話の花田十輝さんの脚本に注目してみる

ラブライブ!』面白いですね。テンションの高さが飛び抜けてるなあと思わされます。
花田十輝さんの、情報を短時間で見せ時間を圧縮してスピーディに見せる脚本が、その一因として上手く機能しているな、と思わせるものだったので、ちょっと注目して見ていこうと思います*1


・一つの話の中で見せる人物の量
ラブライブ!』第2話は、μ'sとして活動していこうとする穂乃果、海未、ことりの三人がメインではありますが、対立する生徒会はもとより、アイドルに興味を持っている花陽、曲作りを頼まれる真姫と、OPEDを見る感じこの後メンバーに加わりそうな面子の多くが出て、それぞれ立場を明確に描かれています。
生徒会の中でも反対派の絵里と応援派の希を分けて描いたり、没個性にならないよう明確に立ち位置を組まれている印象です。
恐らくμ'sの名づけ親っぽい花陽*2や、曲を作って送った真姫も、作中で「出すだけ」ではない見せ方になっていますね。
まあ、にこや花陽の友達の凛はまだちょい見せな感じですが、9人中7人をがっつり話に組み込んでるのは凄いな、と。


同じアイドルを扱ったアニメである『アイカツ!』では、初めは主役のいちごと友人のあおいを見せ、第3話でプロとして活動する美月を見せ、第5話で経験豊富な蘭が登場、といった具合に、話数毎にキャラを出してじっくり見せる構成になっています。これは視聴者の子どもにキャラを確実に覚えてもらうためであり、1年の長丁場シリーズであるから出来る構成でもあります。
一方『ラブライブ!』は、1クールという限られた話数の中で、9人のヒロインをそれぞれしっかり見せていかねばならないシビアさがあります。既にCDやライブを展開している企画なので、各ヒロインにファンがついているはずで、早い段階から各キャラが出てこないと視聴者の心を掴めない。そのため、活動を始める三人以外のキャラにもそれぞれの立ち位置で出番を与えて存在感を見せるわけですね。
穂乃果に直接声をかける花陽に対する、ネットで票を入れる真姫を見せるための段取りは、絵里がネットに登録された穂乃果達のグループを見ているカットを数カット入れるだけという、説明を省く時間の圧縮ぶりも、最大限キャラの動きを見せることに貢献していますね。


・本番に向けた練習回でありつつ、周りに認められるところまでやる
これもなかなか凄いと思ったところです。まだアイドルとして練習を始めたばかりでありつつ、クラスメイトや花陽や真姫の応援を得るところまで描いてしまうという。去年の部活アニメ『TARI TARI』なんかは校内では結構ずっと周囲の反対があって、抜け道的に町内会周りで活動していた印象なので、こちらは飛ばしてるなーと思わされます。ここはスクールアイドルという設定ゆえに描けるものかな、とも思えますね。
生徒会長の絵里は相変わらず反対寄りですが、後輩の真姫にアイドルの大変さを分かってもらうという話を先に入れることで練習メインの回でもカタルシスを作るのが上手いと思わされました。一方アイドルに興味があるキャラとして、声援を送る花陽と、まだ関わってこないにこという二者をそれぞれ対比して見せるのも上手いですね。


演出の領分にも入るところでいうと、最初の階段走りの表情と、最後の表情の対比も決まっていました。A冒頭の中庭を伏線に、Bの中庭のシーンの次にクラスメイトが声をかけるのを持ってくる構成も、場面の対比によって見せるもので、キャラや場面の対比がしっかり組まれています。
演奏の終わった真姫に拍手する穂乃果のカットは1話の反復で、このカット一つで場面の状況を説明する余分な部分の排除も、演出を信じた大胆な手法ですね。
場面のつなげ方の構成としては、書かれた紙を見せていくことで話を作るのも良かったです。許可書を提出するアバンから、掲示板に張られたポスター、悩む穂乃果の真っ白なノート、μ'sの名前の書かれた紙、真姫に渡される海未の歌詞、μ'sに宛てた手紙*3……と、キャラの意志を代弁するようにそれぞれが書いたものや空白のノートが要所に用いられる構成も、演出を信じ、台詞等だけに頼らない脚本の妙だと感じるところです。

こうした、描写を重ねることで最大限にストーリーを語る脚本構成とそれに応える演出によって、時間を圧縮し真姫から曲が届くまでを描いてみせるということが出来るわけですね。


こうして見ていくと、1クールで9人のヒロインを見せる内容であるため、とにかく余分なパートは作れない、あるいは退屈をさせないといった意識が強いと思わされます。その分各ヒロインを話に絡めるためそれぞれのパートの結びつきも強く、観ていて楽しめるのだと思いますね。


ラブライブ!関連エントリ

*1:もちろん、京極尚彦さんがその脚本を更に演出でブーストさせているのもあると思いますが。

*2:元は読者公募で決まった名前らしいので、それを尊重してか誰が入れた票か厳密には分からない作りになっていますが……。

*3:ことりが描いた衣装イメージもそうですね