『スタードライバー THE MOVIE』感想〜繰り返す僕たちのアプリボワゼ

というわけで『スタードライバー THE MOVIE』を観ました。
再構成なので大きくこちらの予想を外すということはなかったですが、TV版が好きなら描写の差異だとか楽しめる部分が多いと思います。
パンフレットでの榎戸洋司さんのテキスト及び五十嵐卓哉監督との対談インタビューも、補完の助けになるのではないかと。
で、以下は突っ込んだネタバレ感想となります。TVシリーズのファンの感想なので、TVシリーズの方のネタバレも当然入ります。ご注意を。


・「今年も来た」季節の風が示す『STAR DRIVER』の反復性
再構成にあって、まず四方の巫女が各々季節の風を感じる場面を各章の冒頭に見せるという構成が目に留まる。
「今年も来た」というように、季節は移り変わるが、毎年必ず繰り返し訪れるものである。
さて、TVシリーズの『STAR DRIVER 輝きのタクト』においては、繰り返し――反復が数々の場面で用いられている。
反復し、対比されるモチーフとして最も顕著なのが、三人組の関係だろう。
タクトとスガタとワコ、フィラメントの三人、おとな銀行の三人、ミズノとマリノとタクト、タクトとナツオとハナ、トキオとリョウスケとソラ、スガタとワコとケイト、マルクとコルムナとクレイス……。
繰り返し現れる過去にあった関係、隣り合って存在する関係と対比され、タクト・スガタ・ワコの三人の関係性が浮き彫りになってくるのがTVシリーズの構成だった。
ヒョウ・マツリの語るサカナの惑星の物語も、サイバディの物語であり、それを取り巻く少年少女によって反復される物語だ。
こうした関係性は押しなべて男女関係であり、これは遠い過去であっても現在であっても必ず存在する関係性だ。
必ず存在し、その中で生きていくというもの。季節と同様、摂理に近い。問題は、その中でどう生きていくか/いたかだ。
季節や、他者との特定の関係は人生において繰り返し何度も訪れるだろう。しかし、そのひとつひとつは一回性のものだ。
何度も反復がなされる本作のドラマとはそういうものだったのではないかと思う。そうしたものに葛藤する場が「ゼロ時間」というのも面白い。
そして今回の『スタードライバー THE MOVIE』も、TVシリーズを再構成することで反復する物語だ。
作中でどれだけ時間が経ったのか分からないが、南十字島にはなかった冬の風が吹いた。しかしそれは春から始まる回想と地続きの冬だ。
繰り返し見せられる再構成された物語には、今回新たな前提が加えられている。スガタとワコがその後銀河美少年となることだ。



とまあ、この辺りはまだこう思って鑑賞に臨んだ部分でもあるのですが。
では、劇場版におけるイレギュラーな部分から、劇場版自体に迫って行きましょう。


特異点的な日死の巫女編と、劇場版の構成との関連
今回の劇場版では、いくつかのことが前倒しに行なわれるイレギュラーがある。
カット尻を細かく切り落としたり入れ替えたり等の圧縮による細かい変更点も多いが、話が進むとそれ以上のある大きなイレギュラーが現れる。
夏の風を感じ、"はじめから"バスの上に乗るミズノの前倒しから始まる日死の巫女編である。
はっきりとしたイレギュラー要素としては、ミズノはヘッドと話し夜間飛行に入らず、マリノは綺羅星十字団にもスタードライバーにもならずタクトに恋もしない。
ストーリーの圧縮率を高めるための展開でもあるだろうが、ミズノとマリノの外部との関わりが多くオミットされているのが目に留まる。
その、よりミズノとマリノの深化した描写が、タクト・スガタ・ワコの三人をメインに捉えた物語にとってもまたイレギュラー的に映る。
この日死の巫女編について、パンフレットの五十嵐卓哉監督と榎戸洋司氏の対談インタビューに面白い話があった。

榎戸 (前略)実際、「日死の巫女編」にあたるパートを省けば、上映時間としてはちょうどいい長さになるんですよ。でも、そこを省くことはできなかった。なぜなら作品が本来持っている勢いとか、ファンやスタッフとの間のアプリボワゼには、我々ですら手を出せないからなんです。(後略)


日死の巫女編のイレギュラーさは、この"ファンやスタッフとの間のアプリボワゼ"というところに何かヒントが隠されているように感じる。では、その何かとは何なのか。
そのアプリボワゼについて考えてみよう。「アプリボワゼ」とは、最も端的に言えば「関係を結ぶ」という意味となる。
映画における日死の巫女編でのミズノとマリノの「関係を結ぶ」描写は、TVシリーズ以上にタクトとワコに費やされている。
ミズノとタクトの「関係を結ぶ」描写の行き着くところは、タクトのシルシからミズノが彼の過去に飛ぶ場面だ。
この場面についても、タクト・スガタ・ワコにフォーカスした構成にあってミズノ視点でタクトを見る、TVシリーズと同様のシチュエーションのままという辺りがむしろこの映画としてはイレギュラー的に映る。
ミズノはタクトのシルシの力で、彼のかつての姿を見る。「親に捨てられた」点についてミズノはタクトを自分と同じだというが、それだけではない。
過去のタクトは、ナツオとハナとの三人組だったが、ハナのナツオへの想いを察して「二人と一人」であることを意識する。
この時のミズノも、タクトはワコを想っているということを薄々察している*1。巫女としてワコに勝てないことも知っている。後にバスで、過去に二人と一人だったタクトの姿と現在の彼の姿を確認したミズノは、彼に別れを告げる。
つまりあの過去を覗く場面は、タクトが傷心を経て、胸にシルシと同じ傷を刻んだ景色を、自らの傷心を意識の底に抱えるミズノが見るという構図になっている。反復される二人と一人という状況が、ここで交差しているのだ。
この場面は『スタードライバー』作中において特に奇跡的なものとして描写されているが、日死の巫女編は更にもう一つ奇跡的な出来事が起こる。
巫女のシルシが破壊されてなお、その第一フェーズが創りだしたマリノが再び現れるのだ*2
これを見るに、タクトが傷心とそれを乗り越えることでシルシ型の傷を得たように、ミズノもまたこの体験を経て彼女だけのシルシを得たのではないだろうか――そもそも、一度シルシを消されたタクトから再び現れたシルシは、既に祖父から受け取ったシルシでなく、彼自身のシルシなのではないだろうか。そう、これもまた反復である。
この映画で描かれる"その後"では、封印が解かれているにも関わらず四方の巫女はシルシを宿している。
そのシルシが生まれたのは、傷心してなお進もうと島を出た時ではないだろうか*3。そう思わされる日死の巫女編の再構成と"その後"だった。


そしてイレギュラーであったこの日死の巫女編の構成は、"その後"とそこから回想される本編の構成を見る鍵となる。
先にも書いたように、"その後"ではスガタとワコが銀河美少年としてシルシを光らせるという新しい情報が現れる。
このシルシもまた、既に受け継いだものでなく、スガタとワコ自身のシルシではないだろうか。
その、スガタとワコの自身の内からシルシが生まれた出来事として、ミズノがタクトのそれを体験するように観客が体験するのがこの映画だったのではないだろうか。
映画の視点も、タクトのモノローグから始まるものの、タクトだけの視点では描かれていない。
綺羅星十字団との戦闘を圧縮して見せる場面にはタクトの感情はもちろん、それを見つめるワコ越しの目線も意識させられる。
第1話を再構成した場面では省かれたタウバーンを見るワコが、その場面に組み込まれているためだ。
この映画にそうした形式を見るヒントになる日死の巫女編のイレギュラーさであり、"アプリボワゼ"だった。
反復される物語を、視点を変えて別な角度から違う景色として見せるのは、『STAR DRIVER』らしい良さだろう。



以下は更にちょっとしたお遊び的な考え。


・ヘッドはタイムトラベルをしたか?
枝葉の部分として面白かったのは、ヘッドに関する変更点だ。
ヘッド、あるいはバニシングエージは、今回の映画では立ち回りを少し変えている。こちらもイレギュラーな事象だ。
先にも挙げた、マリノが綺羅星十字団に入っていないことは、バニシングエージが彼女やアインゴットを必要としなかったこととも取れる。
そして何よりの変更点は、TVシリーズにおいて謀反を起こしていた場面が、ヘッドが十字団の機嫌を取り支持を集めていた場面に変わったところだ。
ストーリーを圧縮する都合上、立ち回りの変わるキャラは他にもいるが、ここまで態度が変わるキャラはこの映画では他にそうないだろう*4
マリノに関しても、恋はしないまでもミズノと同じ瞳を褒められてタクトのことをひとまず認めてはいる。
どうも、こういったヘッドの戦略の変更には後の彼の台詞を思い出さざるにはいられない。「タイムトラベラーになる」「やり直す」といった発言だ。
回想された作中において、大きく選択を変えたヘッドは、そのことでタイムトラベルのようなことを成し得てしまったんじゃなかろうか?
とはいえ、結局はシンパシーによってキング・ザメクを奪うという、安全性を優先した策に落ち着いて負けてしまう辺りはヘッドらしいと言える。
しかしながら、もしこのヘッドの選択によって、不用意に敵を作ることなく、電気柩といった技術を捨てることもなかったために、あるいは破損サイバディ再生の技術がTVシリーズとは違った開発のされ方をしたために、"その後"の中でバニシングエージが再びサイバディを操れたというふうに変わったのだとしたら……。
だとしたら、バニシングエージの暴走のために四方の巫女とタクトとスガタが集まったわけであり、マツリは彼らの仲間として人生という冒険を続けることになったわけであるので、ヘッドはひょっとしたら、TVシリーズでは偽物の雪しか見せられなかった彼女に……。
なんてことを考えたりも出来る、相変わらずの好キャラぶりを見せてくれたヘッドであった*5



といった具合に、この劇場版を観ることで、『STAR DRIVER』という作品の理解や解釈を更に進めることが出来たのが良かったなと思っています。

*1:ミズノの失恋を強く察したのはマリノだが、アインゴットの眼の変奏としての魚眼パースの顔アップが、ミズノとマリノを一気にシンクロして見せる。

*2:あくまで「創りだす」までが第一フェーズの能力とするので矛盾しないという説もあるが。

*3:後述するワコは少しニュアンスが違うか。

*4:ミドリは真面目になったかと見せかけてしっかり生徒と付き合ってるし……。

*5:もちろん、TVシリーズからは"その後"につながらないということでもないはずだ。