TVアニメ『ラブライブ!』第8話の演出考〜「僕らのLIVE 君とのLIFE」に至る、彼女たちのステップ

ラブライブ!』第8話が素晴らしい出来だったので、このエピソードの演出の良さと、この作品の良さについて考えていきたいと思います。


まずやっぱり、このエピソードの肝として一番語られているのは「僕らのLIVE 君とのLIFE」のライブシーンですが、しかしながらそれだけのエピソードではないと思います。
当然、彼女たちのひとつの達成として、そのピークに置かれているのがあのライブですが、ゴージャスなライブさえ配置してくれれば感動するといったことはありません。
では、『ラブライブ!』第8話にこうも揺さぶられるのは何故なのか。



まず、見てもらいたいのが上に貼った3枚の画像です。1枚目が「僕らのLIVE〜」PVの中のカット。2枚目がOP「僕らは今の中で」の中のカット。3枚目が第8話の中のカットです。
多少レイアウトに変化はありますが、どれもカメラとの距離(机の数から)や背景の構成要素を同じくしています。
3枚目なんかはまさに、1枚目と同じ構図を繰り返し、「僕らのLIVE〜」の再演の導入となっています。
目を引くのは2枚目で、演出家が同じだから構図の引き出しがたまたま同じ、で流してしまいそうにもなりますが、よく見るとあることに気づきます。
カメラの手前からことりが顔を出すのは「僕らのLIVE〜」のPVの中でも出てきますし、海未がこの位置から背中を押すというのも、「僕らのLIVE〜」及び、第8話で彼女が絵里にする行動と同じです。
つまり、OPのこの1カットには「僕らのLIVE〜」の要素が詰め込まれていて、先々の展開の種がまかれていたのではないでしょうか。
では、何故2年生トリオのカットで「僕らのLIVE〜」の絵里のカットが描かれたのか。先述した要素には穂乃果は含まれないし、このカットで穂乃果が座っているのは絵里のいた場所であったりもします。何故なのか。



そこで次に見てほしいのがOPのこちらのカットです。穂乃果と絵里が向かい合って……という、劇中の二人の立ち位置がはっきりと分かるカットですが、先の絵里の位置にいた穂乃果のカットと、劇中での様子を見ているともっと色々と考えることができます。
第1話、穂乃果がスクールアイドルを知るきっかけになったUTXに向かう前日の夜、彼女は母の卒業アルバムの中で、恐らく生徒会長として講堂に立つかつての母の姿を見て、口元になにか力がこもります。
言葉として明確に情報化されていないので、意外とここについて言及されているものを見ないのですが、穂乃果が行動を起こすきっかけになった一因として「母が生徒会長」というコンプレックスがある、と取れるカットの積み方になっています。
一方「生徒会長」である絵里はというと、穂乃果がまさに目をつけた「踊り」にコンプレックスを持っていた、というのが第8話で分かります。
実はこの二人は、抱えているコンプレックスと立ち位置が鏡写しのようになっている。だからこそ穂乃果はOPで絵里の座っていた場所にいるし、二人は正面から向かい合う。
劇中で描かれる二人の関係性とこのOPのカット群がイメージとしてつなぎ合わさって、そういったことが見えてきます。
そこから第8話を見ると、なるほど第1話Bパートでの穂乃果と絵里の場面が交互に切り替わるシーンの再演のようなアバンやA冒頭での二人の台詞のつなぎによって、これまで穂乃果を中心にしていた作中の視点が絵里に切り替わる。
そして、この回ではアバンで絵里が穂乃果を遮るように立ってから、穂乃果の顔が隠れることが多く、なかなか穂乃果と絵里の顔が一緒の画面に映ることがありません。
これは絵里視点を強める意図もありますが、映像作品は、その場面その場面の意図だけでなく、いくつもの場面の連続によって効果や意味が生まれてくるものです。
これについては、アニメーター・アニメ演出家である平川哲生さんの記事に印象的な記述があります。

さて、『人狼マニアックス』という本で、画面の奥に向かって道路が「坂」になっているレイアウトに「これは伏と圭のゆくすえが困難であることを意味している」とコメントしてありました。本が手元にないのでおぼろげな引用ですが、これはどうなんでしょう。


たんなる「坂」というイメージは、山が好きな人にとっては「困難を乗り越えて得られる幸福」も意味するでしょう。思春期の人にとっては「人間的に成長するための道」かもしれませんし、老人は「加齢していく運命にある人間」と思うかもしれません。あるいは「結果より過程がたいせつ」という意味を読みとる人だっているでしょう。
(中略)
たしかに、そのレイアウトに描かれた「坂」は「ゆくすえの困難」も意味します。しかし、しかるべきイメージの連鎖があって、結果的にそうなることを忘れてはいけません。


ぼくえん: 『人狼』のイメージの連鎖とレイアウト技術
http://bokuen.blogspot.jp/2006/08/blog-post_17.html


ここで見ていくのもそういったイメージの連鎖に他なりません。
連鎖を感じる場面といえば、絵里が窓越しに穂乃果たちを見る場面*1が何度も出てくるところなどもそうですね。
単体として見れば、この窓越しという状況は絵里が穂乃果たちに感じている距離を視覚情報として表現している、がわかりやすい解釈でしょう。
しかし一方で、これまで見てきた場面の連鎖からみると、絵里が見つめる先というのは、鏡写しの穂乃果であり、鏡の向こう、つまり彼女自身の葛藤でもあると取れます。
言ってしまえば、屋上での穂乃果との会話では、絵里は鏡に映った顔に「やりたいからです」と言われているのです。
それに動揺し、希に本音を爆発させたあと、教室でひとり窓に映った自分を見ている絵里に、窓とは反対の方向から手が差し伸べられる。
そこはもう鏡に隔てられた世界ではなく、穂乃果と絵里はようやく触れ合うことができます。
そうして二人がついに同じ場所から同じもの――もはや窓越しではない青空を見る時に達成されるものが、あのライブでした。

先述したOPでの向かい合うカットや、あるいは第3話の終盤の対峙などから、このカットに至るという映像の軌跡が、このライブをかけがえのないものにしているのだと思います。
見せ場を点として配置するのではなく、まさにライブに入る手前のグラウンドの白線のような、ひとつの道筋を描いている、映像作品が持ちうる連続性という快感を存分に味わえるエピソードでした。


と、いったんまとまっちゃいましたが、もうちょっと続きます。
ここまで、それぞれの場面が連なっていくことで生まれる魅力について見てきましたが、それらもまだ要所要所の場面の遠いつながり。
今回は更に踏み入って、『ラブライブ!』の特徴のような、スピーディな場面つなぎのことに注目してもう少し第8話を考えましょう。
例えば、上述した第1話Bパートでのスクールアイドルと廃校についての説明が穂乃果と絵里によって平行してなされるシーンは、二人の台詞がひとつの流れとなって、ふたつの話が一場面に圧縮されています。
また、第1話Aパートでの2年生トリオがボイスオーバーのダイアローグをバックに校内をまわるシーンや、第2話Bパートの教室で悩む穂乃果からボイスオーバーで海未の台詞がかぶさって中庭に場所がジャンプするシーンなど、ボイスオーバーやふたつの場面をまたぐ会話といった「音」を先行させたつなぎも本作の印象的な映像の流れです。
それと、PANによってカットをつないでテンポよく見せていく手法がよく用いられることも、以前の記事で取り上げました。
これらの映像の流れの作り方は、「音」や「カメラワーク」といった「絵で画面に描かれているものの外側」を最大限に使ったものだと言えます。
場面を飛ばしまくるスピード感あふれる展開などから、「リアルっぽくない」「再現ドラマ的」といった虚構っぽさを感想として抱くブログ記事がいくつかあるのも興味深いところで、「画面内」にすべてを描こうとするわけではない、そこからくる予測しきれないところが『ラブライブ!』の特徴とも思えます。
それで思い出すのが、『ラブライブ!』の監督である京極尚彦さんがTwitterに書いていた言葉。

僕は演出する上で、和風を押したい時以外はなるべく日本にしかない風習を描写したくないと思っていて、他のスタッフさんは気にならないだろうと分かっていてもどうしても気になります。 当たり前と思っていても実は当たり前じゃない習慣っていっぱいあると思うんです。
https://twitter.com/kyo_takahiko/status/203926811690795009


かなり個性的な方針だと思いますが、監督がいかに「絵で画面に描かれているもの」に気を配っているかがわかるようです。ゆえに決してそれだけに頼るまいとするような。
そうしたことに注目して見ると第8話は、これまでの本作の映像の流れとは違ったことをしつつ、しかしこれまでの流れが作劇に昇華されていることに気づきます。
まず、上述したように、今回はアバンや冒頭から絵里と穂乃果が台詞をつなげる流れから入っていきます。
Aパートでの、画面分割にあわせて左右別々なチャンネルに振られた声など、「音」が印象的に聞こえてきます。
しかし、今回はμ'sの面々から絵里にシーンが映る際、真っ黒なカットがはさまれ、流れを切断します。AとB、それぞれ自宅での妹とのシーンの手前ですね。
B頭のバレエ*2や、妹と「これからのSomeday」を聴く場面、窓の向こうから聞こえるμ'sの練習の声など、「音」はあふれているけれど、それらはどれも切断された絵里の外部にあるものです。
穂乃果の言葉(=「音」)から逃げ、ボイスオーバーで現れた希に本音を爆発させるが、泣く瞬間は「画面の外」にある絵里。
……しかし、そんな絵里に「画面の外」から手が差し伸べられる。
その場面に、「音」はない。
何故ならば……「音」は今まさに「画面の内側」に入ってきたからです。
*3


この場面の無音演出について書かれている方がいらっしゃいました。

マンガ☆ライフ |『ラブライブ』八話の「何がしたいのか」という問いかけと無音の演出について
http://ilya0320.blog14.fc2.com/blog-entry-1840.html


映像作品における「音」の重要性というのはその通りなのですが、再三書いてきたように、映像作品は単体の場面でなくひとつの流れの中で意味を持つものです。
今回の第8話では、絵里の心情表現としてのBGMももちろん使われていますが、ここまで追ってきたように、「音」は絵里の外側にありました。
そんなふうに場面を積んできた「音」が消えて、そこへ突然「画面の外」から手があらわれるというこの場面の演出は、すでに心情を説明するための情報ではなく、映像の飛躍による、ひとつの魔法めいた映像表現です。
その瞬間が、「僕らのLIVE〜」PVの中のワンシーンであるというのも、まるで奇跡が起きた瞬間を目撃してしまったような気持ちを強めさせられます。
そこから9人になったμ'sの「音楽」の達成を描くのだから、本当に恐れ入ります。
そのライブの場面も、サビで各メンバーのアップでつないでいくカット割りの、一貫した振り付けの動きによるカット間の連続性の持続が、場面を超えても流れ続ける音楽そのもののように(そして音楽的であるにもかかわらず)目に映るから、とことん凄い回だと思うわけです。



最近、ED曲の「きっと青春が聞こえる」を聞いていて、歌詞の一節がとても変わっていて面白いなと思うことがあります。


きっと青春が聞こえる その瞬間が見たいね」


青春が「聞こえる」ものというのも面白いですが、「聞こえる」瞬間が「見たい」という五感が入り混じった感じが変わっていて面白い。
「聞こえる」と「見る」が同時にあるのは映像作品らしいとも思いますが、一方で、「ライブだってそうだよな」と思ったりもしました。
視覚と聴覚で楽しみ、カットとカットの間で一気に飛躍が起こる予測のしきれなさ、それ自体がライブを見ているかのようでもあります。
その彼女たちのダンスのステップを、これからも見逃すわけにはいくまいと思わずにはいられません。


ラブライブ!関連エントリ

*1:パソコンやiPodのようなものによる画面越しもそこに含んでいいでしょう。

*2:これも画面がモノクロに固まって流れが切断される。

*3:この手の主である穂乃果は、ダンスレッスンをつけていた絵里に「歌ってほしいです」と言う。