TVアニメ『ラブライブ!』第12話までからみる視点の置き方と、その劇的さ

せっかくコメントのほうでご要望をいただいたのに、時間のやりくりが下手なため記事が遅れてしまいました。申し訳ありません……。
さて、TVアニメ『ラブライブ!』第12話、もう一波乱あるとは思っていましたが、恐るべき出来でした。
圧縮された展開で穂乃果のアイデンティティを揺るがす流れは、クライマックスでの谷に相応しい構成ですね。
構成という点でみると、映像と絡めてみても見逃せないものがあります。それは本作に一貫してある、視点の置き方に大きく関わってくる部分です。


まず見てもらいたいのがこの画像群です。

左が第8話Bパートで、穂乃果が絵里に手を差し伸べるカット。右が第12話Aパートでの、絵里が穂乃果にCDを手渡すカットですね。
画面外から腕の伸びてくる位置、方向が同じになるよう、意識されているようなカットです。
それぞれの場面を見ると、前者が絵里を迎え入れる場面で、後者が穂乃果に目標であったラブライブ出場を断念したと告げる場面になっています。
働きかける人物とその対象が逆転しており、そこで起こっている事態も、歓迎する前者に対して後者は厳しい決定を告げるというものへと変化しています。

次に見てもらいたいのが、同じく左は第8話Bパートの屋上の場面と、右は第12話Bパートの屋上の場面のカット。ちょうど穂乃果の立ち位置が逆になっています。
前者は絵里が穂乃果の言葉にとまどい、屋上から出て行ってしまう場面で、後者は穂乃果が絵里らの提案する9人最後のライブを拒否し、出て行こうとする場面ですね。
以前の記事でも穂乃果と絵里の対称性や、それが穂乃果から絵里へ視点がスイッチしているという流れについて書きましたが、今回のこうした映像の流れは、第8話の出来事が反転したようでもあります。
第11話冒頭からして穂乃果視点に移ったことを強調していましたが、第12話でもそれを継続して、第2話に対する真姫からのCD、μ'sの上に貼られたA-RISEのポスター、第1話に対するA-RISEのライブを観る穂乃果と、過去の場面の反転が随所に散りばめられています。


そして、それらの描写が映像というひとつの流れのなかでどう機能しているかというのが最も重要な点です。
序盤で書いた記事に「近視眼的」と書いたことがありますが、それはこの単語のもつ悪い意味を差し引いても、作中で描かれる穂乃果達の視点のおよぶ範囲が広くないということをしっかりと捉え、カメラもその視点と同期して彼女達の感情に踏み込んでいく、そうした視点の置き方がとても良いと思って書いたものでした。
こうした視点の置き方によって、第7,8話で違う価値観を持つ絵里の葛藤にフォーカスし、その外でμ'sの7人が動くというドラマが描き出せたのだと思います。
また、こうした視点の置き方はまさにこの第11,12話の、穂乃果に視点が帰ってくることにおいても重視されていると感じます。
穂乃果の精神と身体のずれが描かれ、そのずれが影で悩むことりと同時に決定的なものになってしまう第11話から、第12話では穂乃果がそれらを実感して「自分がいかにまわりを見ていなかったか」を自覚していきます。
メタ的にも、A冒頭で母親が「昔からずっとそう」と言うことからも、ここまで穂乃果には実は「変化」がなかった、という別な角度から穂乃果を見る視点が入ります。
先述したA-RISEのライブを観る場面は、今度はA-RISEよりも彼女達が大勢のファンを向いてライブをしているということに目線が移り、そこで第1話とは逆に「追いつかない」と穂乃果のモノローグが入ります。
ここで重要なのが、穂乃果はまわりが見えていなかったことを自覚するのですが、そのことでまた彼女は内省をする、という部分です。
面白いと思うのは、そうしたドラマが描かれるこの回のコンテマンが渡邉哲哉さんだということですね。渡邉哲哉さんの説明としては下記の記事があります。

ラブライブ12話〜渡邊哲哉の望む永遠part2 - まっつねのアニメとか作画とか
http://d.hatena.ne.jp/mattune/20130325/1364207886


この記事でも触れられている、渡邉さんの監督作である『君が望む永遠』は、主人公の彼女が事故で意識不明になり、時の流れのなかで主人公が幼馴染と関係を持つようになってしまっていたある時、彼女が当時の記憶のまま目を覚ます、という筋書きです。
こうした時間の流れのずれは、『ラブライブ!』第12話を見てみると、風邪で数日学校を休んだ間にラブライブ出場辞退が決まり、気づかないうちにことりの留学までの期限が過ぎていた、という穂乃果とその周囲の時間のずれにも置きかえられるのではないかと思います。
こうしたディスコミュニケーションによる断絶を自覚することで、穂乃果は内的な葛藤に移っていきます。


葛藤というのは、やはりドラマとしては重要な部分で、これについても掘り下げてみようと思います。
ここまで見てきた流れと葛藤を読み解くために、ひとつ古典に当ってみます。それはアリストテレスの「詩学」です。
とはいえ、私も直接この書を理解したわけではなく、木下順二さんの著作「"劇的"とは」によってなので、今回もそれに準拠した理解なのですが、この本はアリストテレスの「詩学」が悲劇を論じたものでありつつ、ドラマ論だと考えていいというスタンスで書かれたものなので、その視点に寄り添わせていただく形をとります。
木下さんが本著で論じているのはタイトルの通り劇的と呼ばれるもので、そこでやはり葛藤というものを扱うのですが、作劇のなかでの根本的な機能としての葛藤について見ていくときに用いられるのが、アリストテレスの「詩学」のなかに書かれた"発見"と"逆転"というふたつの要素です。
このふたつの要素を、「オイディプス王」を例に抽出したのが以下の文です。

オイディプスは、直接的には疫病を克服しようという良き意図、つまりは自分が良き王として十分に生きようという願望を持って一所懸命努力する。そして努力の末に、自分が罰せられれば疫病はなくなるということを"発見"するわけです。罰といってもそれは単純な罰ではない。自分の父親を殺し、自分の母親と結婚している自分をどう罰するか。つまりオイディプスは、自分自身を否定しなければならないところに行きつくわけです。


そのような"発見"をしたら、発見者はひっくり返らざるを得ない。そこでアリストテレスは、ああいう"発見"をした結果、十数年間よき王として坐っていた地位から全く"逆転"せざるを得ない。それ以上に、彼の人間としての存在が全く"逆転"してしまう。つまりオイディプスは、自己否定を完遂しなければならなくなるのです。


木下順二著「"劇的"とは」より抜粋


途方もない筋書きですが、要素として挙げられた"発見"と"逆転"は、『ラブライブ!』でも適用できるものでしょう。
第8話はまさに、絵里の生徒会としてμ'sに対峙すればするほど浮かび上がる「やりたいこと」の"発見"と、立場を"逆転"するしかないという作劇とみることができます。
ひるがえって第12話は、穂乃果がスクールアイドルを始め、ラブライブを目指すまできたところで、ことりのことを気づけなかった自分の視野の狭さの"発見"があり、ラブライブ出場が立ち消えとなり、ことりと別れなければならないという"逆転"が起こる、といえます。
こうした"発見"とそれによる"逆転"によって生まれる効果を、木下さんはアリストテレスの"浄化"を言い換えて"価値の転換"と呼んでいます。
これは以前の自分の視点が否定されるほどの"逆転"によって、より高次な視点に立つことができ、新しい視野がひらけるというものです。
というとまた大仰に聞こえますが、視野がひらける、視野の外からあらわれるものにドラマを感じるというのは、個人的には『ラブライブ!』の大きな魅力であると思っています。
第3話のライブの客席にしろ、第5話の部室で待っていた6人にしろ、第8話の絵里のもとに集う8人にしろ、カメラの置いた視点の外のものが内にあらわれる見せ方の、観ているこちら側の視点もひらけるような飛躍の表現は、そう味わえません。
こうした"劇的"とさえいえる表現を生んでいるのが、『ラブライブ!』の視点の置き方なのではないかと思います。


話を第12話にもどすと、例えば第8話では絵里の"逆転"があったところに、8人が働きかけるということがあって、絵里は選択をする、というところまでがドラマでしたが、今回穂乃果はひとりの内省的な葛藤から、9人最後という"発見"した現実から降りようとします。
本作のキャラクターデザインである西田亜沙子さんも仰っていましたが、穂乃果はこの変化から逃げるという方に行ってしまったんですね。
そこに至って働きかけるのが、穂乃果とことりの間にいた海未です。
穂乃果とことりの葛藤にカメラのウェイトが置かれていたのが、ここで海未の行動にカメラが向く。この視点の動きがやはり本作らしい良さだと思います。
最初の方に挙げたふたつ目の画像群において、1枚目の絵里は屋上を出て行きますが、2枚目の穂乃果は、その前に海未が止めます。
海未は第7,8話で絵里に視点が移る前に、それまでの視点との中継点として置かれていた存在でもあります。
この海未の働きかけによってどうなるか、あるいは最終回で海未がどう立ち回るのかはひとつの見所ではないかと思います。
そして穂乃果のドラマの最終局、カメラの外に去っていったことり、これらをどういった"劇的"で見せてくれるか、非常に楽しみにしています。


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