『風立ちぬ』にあった映画の時間

先日『風立ちぬ』を観てきました。面白かったです。
久しぶりにスタジオジブリ作品で映画なるものを観た気分になれました。
以下、そのネタバレありの感想です。


堀辰雄の小説『風立ちぬ』は個人的に、不思議な感覚をもった作品でした。
この小説は、堀自身の婚約者との日々を下地にした私小説的な内容でもあり、
作中でも触れているようにノートにそれを記述している形式のため、基本的に過去形で進行します。
一方で、そうした記述の中、ある時から現在形の文体が現れてきます。
それは「冬」の章、記述に日付が加えられだしてからの、十一月二日の記述で初めて現れます。

十一月二日
 夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。その明りの下で、ものを言い合わないことにも馴れて、私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、その笠の陰になった、薄暗いベッドの中に、節子は其処にいるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情を籠こめた目つきである。ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに努力している私を助けていて呉れることか!


http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html

この次の十一月十日の最初の段落の現在形は、数日分の様子の描写のためにその文体が選ばれていると自分の中では仮定しているのですが、
この十一月二日の記述、またその後に続く十一月二十八日後半、十二月一日の記述における現在形はそうした様子ともまた違う。
そこを気にして読んでいくと、「死のかげの谷」の章の十二月十日の、
「この数日、どういうものか、お前がちっとも生き生きと私に蘇って来ない。」
の一文から始まる記述に驚かされます。
そして、この小説の最後の一文も現在形の文体をとっています。
もう少しこの堀の話を続けますが、こうした文体による時間への意識は、彼のマルセル・プルーストからの影響を感じさせます。
プルーストの代表的な大作『失われた時を求めて』は、紅茶に浸したマドレーヌの香りと味によって
過去の記憶が鮮明に蘇るところから始まるものでした。


長くなってしまいましたが、翻って今回の映画『風立ちぬ』も、時間の捉え方が印象的でした。
それこそカプローニが「設計師の寿命は10年」と言い切ったことや、結婚の際に二郎が宣言をしたように、
本作ははっきりとしたタイムリミットをもってきています。
映像としても、たとえば冒頭目についたのは、少年の二郎が布団をたたむカットでした。
宮崎駿さんが脚本を担当したここ数作、『借りぐらしのアリエッティ』『コクリコ坂から』では、
こうした生活の中の芝居の所作は尺をたっぷりめに描いていました。
それに対して先のカットは、二郎が布団を持ち上げて一動作でたたんでしまった次の瞬間には、カットは変わり場面が移ります。
こうした、カット尻を素早く切り、場面を飛ばしていく編集は、先述のタイムリミットと絡んで
このフィルムの気分を生み出していたと感じます。
何より印象的だったのは、最初のゼロ戦試作機が飛び立った場面から移った次の場面です。
予告や広告にも使われた、絵を描く菜穂子のカットが鮮明に現れつつ、二郎は無残に墜落する試作機を回想します。
唐突とさえいえる菜穂子の再登場、先の場面での結果を持ち越して回想によって明らかにするという編集は、
宮崎さんの映画では珍しく思え、そのカットのつなぎ方にはある種北野武さんのそれのような切れ味すら感じました*1
小説『風立ちぬ』において、時間を意識した記述がなされていたことはすでに話したとおりです。
映画『風立ちぬ』もまた、10年の設計師生命や菜穂子との結婚生活のタイムリミットの中を、
編集で次々切り取っていく、または回想が印象的に挿入されることによる時間への意識があったのを確かに感じさせられました。
もちろん編集の中には、喀血した菜穂子のもとに駆けつけた二郎が帰る折の菜穂子のリアクションなど、
カット尻に芝居の間を置くカットも用意し、そうした所作の中の感情をより際立たせるというものがあったことも忘れてはいけません。
そういった所作は、主人公である二郎すら気づかず過ぎてしまいます。
結婚の式の際、廊下を渡ってくる菜穂子の厳かな姿も二郎がその目にすることはありません。
一方で、我々も二郎と菜穂子の一日一日を大事にするその生活をすべて覗けるなんてわけではありません。
その中で覗くことのできる、病床の菜穂子の手を握り作図する二郎の姿に、私は先の小説の十一月二日を連想せずにはいられませんでした。


小説『風立ちぬ』は、風に節子のカンバスが倒されるところから始まるように、「落ちる」という動きが要所に現れます。
映画『風立ちぬ』において二郎は、最初の夢の時から、飛行機の墜落する姿につきまとわれ、追い立てられ続けます。
その一方で、風に飛ばされた彼の帽子をつかんだ少女が菜穂子でした*2。彼もまた彼女の手やパラソルをつかみます。
軽井沢での紙飛行機と帽子をそれぞれつかむ様、先述の病床の彼女の手を握り作業する様などもそうした動きの延長にありました。
藤津亮太さんのこの時評などは、その様を見事に書き表しています。

 目の前に飛んできた帽子を(列車から落ちそうになりながらも)迷わずつかみ取る。一見すると人間性に関する描写が少なく見える菜穂子だが、それは菜穂子というキャラクターのすべてが、この「身を挺しても、風に運ばれていく何かをつかみ取ろうとする」アクションの中にすでに現されているからだ。


藤津亮太のアニメ時評四代目 アニメの門 第1回『風立ちぬ』 | bonet
http://bonet.info/review/4animon01/

ここにこれから書くことも、この時評で記されていることとかぶるため、少し気後れしてしまうほどですが……。
映画『風立ちぬ』は最後、地に墜ちたゼロ戦が転がる夢の大地で、二郎のもとから菜穂子が消える様*3が描かれます。
そこでは、風に煽られたパラソルはもう誰がつかむでもなく、草原に落ちてゆきます。
イムリミットは過ぎ、ついに完成したゼロ戦はすべて墜ち、菜穂子のパラソルももうつかむことはできません。
それでもなお、というところにテーマを立ち上がらせる辺りに、今作の時間への意識の結実を感じることができました。
そしてやはり、その場面に想起するのは小説『風立ちぬ』の「死のかげの谷」の十二月十日でもありました。


宮崎さんのここ数作、『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』から先の脚本担当作品を見ていると、
もう明確なドラマツルギーのあるプロットによるエンターテイメントは志向していないのではないかと思わされます。
本作もそうした作りになっていますが、本作の描き出そうとしている時間はいつにない映画的な意志を持っていて、そこが私にはよかった。


最後にひとつ余談を。
夢の場面の雲や草原などの色合いは、モネなどの印象派のようなものを思わせますが、
堀はプルーストについて記した『プルウスト雑記』の中で、プルースト印象派の画家を重ねているのでした。

*1:またそれは、夢の場面の挿入も含め、宮崎さんが子供に向けてフィルムを作っていないと感じるのに十分なほどでした

*2:ただ、後に彼女も滴り落ちる血に急き立てられてゆくのですが

*3:あの菜穂子も、二郎にとってどれだけぶりに再会した菜穂子なのでしょうか