夏コミ寄稿告知と『おおかみこどもの雨と雪』感想〜フレームの外側

おおかみこどもの雨と雪』を観てきたので、今回はその感想を。
当然のごとくネタバレ記事となります。
また、ヴィクトル・エリセ『エル・スール』に触れてるのでご注意を。
いや、ネタバレあるぶんの字数稼ぎで言ってるだけなので大したことじゃないですが。
あ、というか字数稼ぎなら告知をしてしまえば良いですね。告知です。


今回のコミックマーケット82において頒布されますアニプレッションvol.3に寄稿をさせて頂きました。
東映アニメファン視点による個人的『プリキュア』シリーズ史観と各作品紹介」という記事になります。
タイトルの通り、各『プリキュア』シリーズを俯瞰的に振り返りつつ見所を紹介する形になっています。
9作分なので全体としては長めですが、各作ごとに分けて書いてあるので気楽に読めると思いますので、よろしければ。
概要としましては、以下の通りになります。

本名     :アニプレッションVOL.3
場所     :コミックマーケット82
日にち    :2012年8月12日(3日目)
サークル名  :アニプレッション
配置     :東T-25b
価格     :400円
公式ブログ( http://blog.livedoor.jp/anipression/archives/51355164.html )より


何卒よろしくお願いします。では感想の方へ。


本作は様々な媒体で語られているデジタル・フロンティアによる動く美術であったり、
細田守さんの師匠である山下高明さんを始めとした作画陣であったりというような各スタッフの豊かな仕事ぶりも見ることができますが、
個人的な思い入れもあるぶん細田守さん個人に意識が集中しました。


結論から言うと、画面内の構図の作り方から、カットを割っていく中での反復、対比といった意味付けがかっちりと絶対的なまでに作品を支配していて、いっそう演出の記号化が強く、作中人物の感情に入りきらないもどかしさを感じました。


花について、その母親像が語り口になることが多いですが、これが結構難物で、描かれている花は雪のモノローグ――それも、彼女が物心つく以前は伝聞――というフィルターが通されており、その語りのうちには「自分は知らなかったけどあの時母は大変だった」といったような実際との乖離もあって、額縁通りに受け止め切れないかな、と思いました。
ナレーションが伝聞であることで、出産や幼児の子育て、農作業のくだりなどが段取り的に映ることにもなります。
花の感情としては、彼女が躍起になるのは子育てで、その根源的な理由が先立たれた夫への意識であり、若い母なので娘に自分が着たような青いワンピースを与えたり、狼としての成長を肯定したりと自分の青春と愛の経験を子供に与えて再演の期待すらする辺りが――反復の演出による副産物のようでもあれ――彼女のエゴイスティックなところが出ていて印象的でした。
夫への思いを表す夢のシーンは演出が記号的すぎるぶん映像の飛躍となるにはパワー不足を感じてしまいますが、
花が娘によって寓話的な存在として語られる特別さを秘めているということは先の印象でなんとなく了解しました。
それはちょうどかつての細田さんが言っていたことを連想するものであったので。それが故にもっと突っ込んで欲しくもありますが。

"橋本:特別な人がどうして「特別」かというと、何かが欠けて特別になっているわけですよね。マイナスの意味で「特別」なんですよ。若葉とかは、特別な人に憧れるんだけど、その特別な人達はじつにシンドイ目にあっている。"
http://kasira.blog97.fc2.com/blog-entry-49.html


雨は本作において最も縦糸として決め込まれた「父を失った母に育てられた子供」の演出プランに縛られた印象です。
雪が花との会話の際独立したフレームを与えられているのに対し、雨は花に頭をなでられたり、花と接するカットが多めにとられている。
それが集約するところがクライマックスにおける「親の手を離れる」を地で行く花の手のアップなのは言うまでもない。
また、雨の成長の過程は雪との対比を平行線で進めつつ、縦糸として用意されたイベントで段取り的に行われる。
作画と美術のまま行われる背景動画で大きく動かす雪の日の、川に落ちて生と死の間をさまよう場面であったり、
やはり美術が動くことが活かされる嵐の日であったりがそれに当たります。
老狼や先生といった外部の要素を見せてはいるものの、映像として雨の成長の流れを説明しきろうとする演出のため、
どうにも彼自身より話の方が先行する感覚でした。
自分が特殊なコミュニティに属して、尊敬できる格上の存在ができたことでそれを自慢する辺りはオトコノコしてて面白かったんですが。


ではナレーションの主、雪についてはというと、彼女も対比の記号的演出の枠から脱しきれなかったといった印象。
動的な雪と静的な雨、雪の日のイベントを経て人間を選ぶ雪と狼を選ぶ雨、二股の道、喧嘩の前のシンメトリカルなカット割り――
本作の看板を背負っているとはいえ、男女であまりにも対に造形されすぎていることが、画面内の雨と雪よりも、
記号的な演出のフレームそれ自体に意識を向けさせられてしまいます。
彼女が母に抗議する室内カットだとか、日本家屋の縁側と裏口を縦断するシーンだとか、雨に追われた風呂のカットだとか、
雪を捉えて独立できうる場面も結構観られるのですが、今ひとつ彼女に迫っていくこともなかったな、と。
雪と草平周りの話は結構好きなんですが、終盤彼が今後を語る際に「一匹狼」と象徴的な台詞を言うのは、
個人的に好きな細田さんが『少女革命ウテナ』の頃の、作中に没頭し脚本上の誇張や象徴的な部分を排するスタンスであるため、
ここでは視線が引いていることを感じてしまうところでした。
事実、雪の親離れの芽生えはそこから雨の行動へとカッティングでつながれ、彼女の感情はフレームの枠に押し込められてしまう。


また、このナレーションの形式というところで、思い出す映画があります。
最初に触れたヴィクトル・エリセの『エル・スール』という映画で、細田さん自身エリセを好きな映画監督として挙げているようです。
この『エル・スール』という映画は、娘が成長とともに憧れを抱いていた父の過去の闇とそれによる憔悴を意識していくという内容で、
その父が過去に決別した、その象徴が「南の地(エル・スール)」です。
この映画におけるナレーションは娘であるエストレリャの回想という形で一貫して行われています。
父とかつての彼の恋の相手との往復書簡など、エストレリャの与り知らぬ箇所にカメラが入り込むこともありますが、
基本的にエストレリャの視点に寄り添ったカメラで、タイトルにある「南の地」は想像の上でしか描かれていません。
父は自ら逃れてきた「南の地」に囚えられ、ついには自殺してしまう。
その「南の地」にエストレリャは最後に向かうことになる、という時点からの回想がこの映画の柱です。
本来ならば「南の地」に向かってからの物語も描かれる予定でありながら予算の都合でそこまで描かれることのなかったこの映画はしかし、
そのために形而上のものとして描かれる父の挫折した青春を娘が追うというフレーム外まで振れる感情が宿っています。


翻って『おおかみこども〜』においては、雪が花から聞いた話と自分の体験をあわせて回想する形式にあって、
父との愛ひとつを携えて子供二人を育てる花と、狼としての道を選んでいった雨、自らの進む道を一匹狼と称した草平らとの対比から、
雪が何を思い考え、何を選んだのかが今ひとつ見えて来なかった。
喧嘩のあとの雪と雨の関係にしても、彼女が都会の中学校を選んだ理由にしても。


何も他の監督作との比較においてだけ言えることではなく、細田さんの演出として僕が好きな『少女革命ウテナ』の23話や29話といったエピソードにおいて、物語から退場し、すでに画面からその姿がなくなった御影草時や土谷瑠果といった人物の感情が、それでも最後まで感じられる情念もまた、演出の作るフレームの外にありました。


そんなわけで本作は、演出の技巧としての鋭利さ、画面内を形作る豊かな表現は一級ながら、描かれる感情がフレームの内を破れていないような気がして、少し寂しかった。
お伽話のような特別な愛を糧に自らを育てた母と、狼として一人獣道に向かっていく男二人を見てなお、都会の中学校に向かう雪。
もしかしたら彼女も世界を革命するしかなくなるのかもしれない。そんな話が観たいなあ。



・おまけ


これはなんとなく思うことなんですが、富野由悠季さんが『おおかみこども〜』について述べた文のこと。
富野さんは本作で描かれているものについて「子供の成長の問題」としているのが気になるところで。
「そこに至った意味は刮目(かつもく)すべき」ともしています。
富野さんは花のことをグレートマザーと評する様々な感想とは違って、"成長の問題"が描かれていて、"至った意味"まで描いているといいます。
先に花についてはエゴイスティックだと思った旨を書きましたが、富野さんも本作に関しては花の"業"の方が気になったのかな、と。

富野由悠季 : 「おおかみこどもの雨と雪」を異例の大絶賛
http://mantan-web.jp/2012/07/20/20120720dog00m200050000c.html