トップとトップ2の間で…

スイートプリキュア♪」を振り返る記事を数回書くとか言って続きを上げないまま別な記事に進んじゃってなんですが、
岡田斗司夫さんの↓のブログ記事に掲載された講演記録が面白かったのでそれに付随した記事を。

魔法少女まどか☆マギカ』,全話通して見たら気がついた - 岡田斗司夫公式ブログ
http://blog.freeex.jp/archives/51311861.html


岡田さんと鶴巻和哉さんの差というのは、岡田さんはオタクを「ライフスタイル」的に捉えていて、
鶴巻さんは「青春の一部分」的に捉えているような感じかな、と。
鶴巻さんはその一部分を拡大して「思春期」という方向に持っていったというか。榎戸洋司さんの志向とかもありそうですが。
でもラルクは沖縄で鳥の観察をしていたし、若い頃のことを全て否定するということもしなかった辺りが鶴巻さんの繊細さでしょうか。


とはいえ今回はそこを考えるのではなくて、というか岡田さんの記事におけるオタクに関する部分とは実のところ直接関係はなくて、
何より以前「トップをねらえ!」と「トップをねらえ2!」を観ていて感じた差について書きたくて。


それというのは岡田さんの記事でいうとSF――科学に対するスタンスの辺りの方がかぶる部分で、
「トップ」と「トップ2」で受ける技術のインフレ感がずいぶんと違うな、というもの。
「トップ」では決戦兵器としてのガンバスターをコーチが作り出し、戦艦や量産機シズラーも数々作られ、
バスターマシン3号も急造され、動作が上手く機能しなくはなるけれど使い物にはなったし、
1億2千年後も人類は文明を更に発達させて生きていた。
宇宙怪獣に対して地球人類が一丸となっていることもあるでしょうが技術の発達が著しく、
オチがああいう形になったのも人類の技術がこの先も右肩上がりに成長することを何ら疑わない科学への憧憬があってのものと感じられました。


それに対する「トップ2」ですが、こちらは前作に比べるとどこか天井が見えてくるような印象を受けました。
バスターマシンに乗れる資格としての「トップレス」という性質は若いうちの一時的なもので、
そのトップレスの力が宇宙怪獣との共通点であったりもするし、かつて自らが作ったバスターマシンが危険因子として抑圧もする。
トップレス達が使用するのは縮退炉を用いないバスターマシンで、新造されることは珍しい。
そして前作ラストの1億2千年後付近に当たる2の世界ではかつてのバスターマシンの技術の一部はロストテクノロジーと化してしまっていた。
バスターマシン7号は人類のもとを離れてしまい、黄金期だった頃の地球の技術は多分引き継がれることはない。


といったように、「トップ」では技術の進歩が青天井気味だったのに対して、「トップ2」は受け皿的な作品の性質もあってかロストテクノロジーとなった技術があるし、人類が進歩するためのトップレスの力は限界があるし、新造よりも過去の兵器を再利用しているものが多いし、と前作に比べ技術の発達に翳りを感じさせるような差を覚えました。
作品が作られた時代性が反映されているのかと考えるのなんかも面白いですが、
何にせよこうした印象を持っていたので先の岡田さんの感じた限界というのも納得できるものでした。
岡田さんの「トップ2」最終回ボツ案はノノが全ての原因に至るという科学的インフレの極地ですし。
最近だと丁度芥川賞を受賞された円城塔さんがこういうインフレの極地の上で話を立脚させようとしていますが、それはまた別のお話。


この差を挙げて両作品の良し悪しを問うつもりはありませんが、自分の中の印象がスタッフのうちの一人の体験を読んで軽い実感になったのが面白かったので書いた次第。
GAINAXでいうとそのうち「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公の衣装と社会にコミットするお話とのシンクロとかも書きたいですね。
……と書いたほうがちゃんと書く確率は高くなるんだろうか。何にせよ風化しないように。